第16回
弁護士 山田幸彦
K君が本年9月23日亡くなったとの知らせを受けた。享年50才であった。
K君は、予防接種(ワクチン)の副作用の被害者である。K君は、1963(昭和38)年、生後10ヶ月のときに二種混合(百日咳・ジフテリア)の予防接種を受けて急性脳症を発症し、知能・身体の両面に重い障害がのこった。
私がK君と最初に会ったのは昭和50年だったが、けいれん発作があるため頭にはラグビー選手のようなヘッドギアをつけ、体重はすでに100キロ程もあった。母親のA子さんは、K君がけいれん発作を起こすたびに、頭を打たないように下になってK君を支えるため、生傷が絶えなかった。アキレス腱を切ったこともあると聞いた。
尋問をするために自宅を訪問したとき、居間には、K君の転倒対策のため建具はなく、家具はほとんどといっていい程何も置かれていなかった。尋問が終わったあと、裁判官が思わず「お大事に」と頭を下げたことを昨日のように思い出す。
K君と同じような予防接種の被害者が集まり、1976(昭和51)年3月、国を相手方として裁判を起こした。予防接種は、伝染病予防に大きな力を発揮したが、国は、接種率を低下させないためにその蔭で発生している副作用をひた隠しに隠していた。当時予防接種の多くは強制であり、学校などを会場にして集団接種で行われていた。予防接種の現場は、子どもの安全は二の次で「牛馬に焼き印を押すがごとき有様」だったという。
このような状況の中で多くの副作用が発生していたが、被害者は予防接種の副作用かどうかも分からないまま、長年にわたって放置されていた。
私は、提訴当時まだ30才前の駆け出し弁護士だったが、弁護団の事務局長を務めた。大変難しい裁判だったが、医学界の大御所的証人の支援を得ることもできて一審勝訴し、1993(平成5)年7月高裁で勝訴的和解により解決した。提訴から実に17年が経過していた。
K君とは、裁判や会合で顔を合わせるたびに「山ちゃん、元気。」「オウ、K君も元気か。」と声を掛けあっていたが、最近はK君とA子さん連名の年賀状をやりとりするだけになっていた。私も齢を重ねたが、被害者や親も老いた。情熱をかけてともに裁判を取り組んだK君の死は、私にとって時の経過を痛感させる大きな出来事だった。
裁判は、起きてしまったことを事後的に救済する手段である。しかも、それは通常金銭的な回復にしかすぎず、失った命や健康を取り戻すことはできない。しかし、K君達の裁判は、厚生省(現厚労省)の猛省を促し、予防接種における安全性の重要さを社会に認めさせ、その後の副作用被害を減らすことに大きく役立った。また、副作用被害者の救済制度を確立することにもつながった。
K君、君の人生は幸福とは言えなかったが、大きな役割を果たしたよ。合掌。